詩は死ぬ
さっきこうちゃんと話していたこと、じぶんのなかのすごくいい感覚だったんだけど、こういう大事な大切な事ってすぐに忘れてしまうんだよね。
だからメモしなきゃいけないと思って、こういう時にこそブログに書き留めたいのに忘れちゃう。勘弁して欲しいよねえ。記憶力よ。
詩のこれからについて、どう思うかという議題を出されたんだと思う。
ある詩人の詩は新しいという話を聞いたりもした。新しいということは、産まれたということ、生を受けた。
ということは、もう既に死だということ。
あと、古本屋に行ったら、昔の人の詩集を買っていたら、その詩集をぽつらぽつらその書店が新しい本を置きだしたという話をして、一体今はだれが流行ってるんだろうね?と疑問を投げかけられたこと。
わたしは古い詩人はあまり読まないし、そもそも詩もあまり読まない。(自然な流れで手に取った本は読むし、好きになることはあるので人並みということで安心して欲しい。)
自分が書く方なのであまり読まないんだと思う。
そして、だれが流行っているのかということなのだけど、それについてもかなりドライだが、結構どうでもいい。
けどそこで思ったのが、それこそ古い詩人は読まれなくなり、淘汰されても別にいいのではないかということだ。
なんでもそうだけど、音楽だって、詩だって、絵だって、「古典的」と言われる初期の頃の感じというものがあると思うんだけど、技法とか、魂の出し方とか。
それってだんだん多様化して、研ぎ澄まされていっているとわたしは思う。
人間や植物、動物、昆虫と同じでわたしたちは進化してるんじゃないかと思う。
化学や技術も同じで、昔の人を礎に、どんどんタワーが出来ていく。
わたしたちは一番最先端だ。
タワーの下は霧が勝って見えない。けれど、たしかに礎となっている。
だから書店に古い詩人の本が消えていく(ということは需要がなく、読まれなくなっているということ)。
それは悪いことでもなんでもないわけです。
だったらわたしは新しい人のほうが好きだ。
同じところに止まるということは、とても楽だけれど、それは停滞をするという事と同じことでもある。
常に進化していたい。
だからいま、最果タヒとかが売れているのは、新しい人類の言葉そのものだからだ。
きっとそのうち谷川俊太郎も西脇順三郎なんかと一緒で消えていくだろう。
けれどそれは、人間などと同じで、旧人類のDNAを受け継いで成り立ち進化したということを忘れてはならないし、それもいずれは消えて死んでいくということだ。
それでいいし、自分も消えていく。
人間だって、産まれたら死ぬ。
ということは、詩も死ぬってことだ。
現にもう死んでいるのかもしれない。
詩は死に、新しいものに変わる、受け継がれていく。
私の印象としては、二次元の詩は、三次元の朗読になっていき、身体の全身を使う、演劇のようにもなってきている。多様化してる。
歌い出したりするものもある。
そして、音楽と合わさったりもしている。
新しく姿形を変えている気がする。
言葉である限りそれは詩だ。
そしてそれは進化であるということだとも思う。それを否定することは礎を否定することにもなる。
死んだ亡骸を餌に進化をし成長をして死んでまた新しいものが生まれる。
それに順応していく。その繰り返しだ。
それが定めであり、この宇宙で決まった唯一分かり切っている法則。
新しい詩が進化したものが消えて、音楽も消えて、詩が消えて、言葉が消えて、絵が最後に残る。そして人間も消える。
そしてまた新しく世界が始まる。
人間の生と死と同じこと。
自然の流れの中にあるということだ。
わたしたちにできることは、全てを受け入れていくこと…。
言葉である限り詩だと先ほど言ったけど、絵は一番最初の詩であると思う。
(絵は象形文字になり、それが文字になり、言葉になるのだ。)
と、こんな感じだった気がする。
覚えてないよ〜〜でも、だいたいこんなことだと思います。
伝わればいいし、伝わんなくてもよい。
わたしの中のただのメモなので。
では!
0コメント