どこにも属せない僕ら

「僕ら」と書きましたが、「わたし」の話です。でももしかしたら、「あなた」の話かもしれない。

では、話しますね。
書いて吐き出さないと、どうにかなりそうな気がしてわたし、不安なんです。なにかに。

まず、わたしの小学生の頃の話。
その頃わたしはクラスの中でもヒエラルキーでも上のグループにいました。俗にいう、目立つグループ的な。その中の中心的な感じだったり、そうじゃなかったりしてた。
あの時は身だしなみが引くくらいすべて男だった。でも、今もそのモチベーションは変わっていないかもしれない。楽だし、女の子するのは結構苦手だったりする。
男の友達が小学生の頃から多いのはそれが理由。楽なんだ。
女の子の洋服を着るのはコスプレに近いかもしれないな。今思ったけど。
当時の親友(女の子)と友達(女の子)に襲われたこともあるけど、あの子達まだ覚えてるかな。わたしが覚えてるんだし覚えていて欲しい、ずーっと。

同じクラスで、同じくヒエラルキーで上のグループの中心的なアイドルみたい(キムタクとか、香取慎吾とか)だけどクールで笑うと可愛いくて、サッカーも上手くて、茶化したりするのもかっこいいなと思っていた好きだった男の子がいた。
最後まで何も言えなかったけど、普通に仲は良かったと思う。がんばればいい感じになれたかもしれないけど、わたしは「男」としてなんでだか接したかったんだ。当時の友達も彼のことが好きだったし、「男」のわたしには勝ち目はないし、付き合うとかはどうでもよかった。じゃれ合って話すことができれば、ただそれだけでよかった。

グループの女の子の話でも同じ考えで、みんなとじゃれ合ったり恋バナしたり、みんなで遊んだり、楽しいことをするだけでよかった。そういう毎日が好きだったけれど、何故か突然ハブられ、いじめられたりした。
理由は忘れたけど、好きな男の子が被ったとか、誰と仲良くしてるとか、悪口言ってたとか、言ってないとか、超くだらないことだよね。
そういう事があってからわたしは女でいることってクソだるいよなと思ったりした。
かわいい洋服も興味が全くなかったけど、子供服のブランドを着ていた友達の影響とか、恋ってたのしいこともあって、女の子らしいのを親に買ってもらったりした。
ブランド服は上着とかワンピースとかでは数着持っていたけど、基本的にはヨーカ堂にある子供服とかそういうの着てたのを思い出した。それでいじめられたことはないけど、ヒエラルキー上のグループの違うクラスの女の子は全身ブランドだったりしていた。
しかもそういう子に限っていじめとかしだして性格がとても悪かった。
わたしはグループにいること──属するということが、とても面倒になった。
わたしはわたしでしかないのに。

そういえば、高校の頃だかに、地元を歩いていたら、自転車に乗っていた好きだった彼にすれ違ったことがある。
かなり大きくなっていて、変わってなくて、それに随分かっこよかった。
相手も気づいていたかもしれない。
でも喋ることなく振り返ることなく真っ直ぐ進んだ。同窓会なんかないし、また会って話せる世界はきっと来ないんだろうな。


中学生の頃の話。
その小学校の頃のこともあって、わたしは中学生に進学した時にどういう心持ちでいればいいのか全くわからなかった。
進学したら知らない子たちだらけで、もっと目立つ子がいっぱいて、わたしはその時点で諦めていた。中学デビュー失敗だ。
ていうかどうでもよかった。
またグループ作って、自分の存在を強い物だと周知させる。
不毛だし、やることがないんだろうな。
そんなことずっと考えていた。

それでもいじめられたり、陰口言われることがとても怖くて、わたしはヒエラルキー上の子とつるんでた。仲良くなるのなんて簡単だった。それが生き残るために必要なことって思ったからだ。
でもその選択肢は間違ってた。
いや、間違ってはいない。その経験があって今うまく生きているんだから。それがあるのとないのではだいぶ違うんだから。
でも、その当時は地獄でしかなかった。
いじめていじめられてが毎日あった。
いじめなきゃいじめられる。だからいじめる。すごいサイクルだよ。その当事者じゃなきゃこの辛さや矛盾はわからないことだよ。
(しかも子供の脳ミソだってことを理解しなければなにも言えない。大人の脳ミソじゃなにもわからないし捌けない。)

いじめられいじめて、また仲良くなって、またいじめられていじめての繰り返し、天然の飴と鞭、凄いんだよな。サイコパスだ。
そんな関係なのに「友達」って無理して付き合ってた。仲良い時はたしかに楽しくて好きなんだよ。
酷い時は学校に呼び出されたり、問題児みたいになっていた。わたしは真面目なのに。

わたしは小学生、中学生の時にそんな歪んだ世界に生きていて。

だからこそわからなくなってしまった、友達がどういうものなのか。
ほんとうの友達がわからない。
ほんとうにわからない。
欲しいけど、わからない。
肩並べて、肩寄せ合って、目と目で話して、スキンシップして、抱きしめあって、全力でふざけて笑って、悲しみを分かち合ったりしたかった。その青春をわたしはしてこなかったからわたしはずっと友達もいなくて、一歩踏み込むこともできなくて、踏み込む人もいなくて、「大人」な距離を適切に踏む人間になってしまった。
かなしくて、とてもつらい。
親友も小学生からできていない。
彼氏彼女を作ることなんて簡単だ。
それよりも親友や友達がいる人がほんとうに羨ましくて。
これからできるのかな。
これからできるのなら、嬉しいから大丈夫。希望だから、大丈夫なんだけど。

根本はあの小学校の時のまま。
「仲良く楽しく、みんな友達でいようよ」
だから敬語も人を隔てるものも大嫌い。

だからどこにも属せなくなってしまった。
なにか表現することはとても大好きだけど、気分もあるし、絵を描きたくないときに描くことはしたくないし、属すことができない。
いつまでも敬語を使って人と距離を測る人は基本的に心を開いてくれないから、悲しくなる。だからあまり喋らなくなる。
それに、属さなくてもいいはずだ。わたしはわたしだ。わたしでしかない。わたしというコンテンツだ。そもそも、商売のために表現をしているわけでも見てもらいたい訳でもない。商売にするのなら何か一つ切り売りできるものがあればいいけれど。
でも、人の心を切り売りするって凄いことだなと思う。切って売れるんだよな。
基本的には何か型にはめられるような簡単なことをしたくはない。わたしのアイデンティティはここにしかないのだから。

amazarashiの名前という曲があって、とても大好きな曲なんだけれど、ほんとうにそれでしかない。名前なんかいらないはずだろ。

だからわたしは唯一のそのコンプレックスと孤独をこれからもずっと背負って愛して行かなきゃ。行かなきゃいけない。

potsura.

思うことをぽつら、ぽつら。 小説のような、日記のような ぼくの淡い日々と哲学と本音。

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