精神性、分かり合うこと、

わたしは精神のことを考えたりすることがとても好きなのだけれど、そのひとつに、
「映画」というキーワードがある。

みんなは同じ映画を何度も見ますか?
わたしは数年後や数日後、数ヶ月後とバラバラですが、気が向いた時にまた昔見た映画を観ることがあります。(アニメや漫画もある)

何故なら、その時によって重複したりしながらも、前回の感覚とプラスして新しく異なる解釈を自然と感じることができるからです。

映画としての深みとして面白いとも思うし、違う解釈が生まれた気付きによって、わたし自身の精神性の深みを感じることができる。それがとにかく面白いんですよね。
昔はこんな感想だったんだ、ちっぽけだなとか。成長したなとか。なるほどね〜!とか。

同じ媒体「内容」なのにもかかわらず、どうして人によって、時期によって考え方、捉え方、解釈が違うのか。
全く面白いと思います。

否定してる訳では全くありませんが、
そういうことをしようとしない、自分の精神面にアプローチを己からかけたがらない人とはどうしてもあまり性格が合わないんですよね。

嫌いだったり興味がないものが目の前にあった時も同じことが言えると思う。
仕事とかは慣れたジャンルを選びたいのでそういうシュチュエーションは少ないけど、
例えば、好きな人と趣味が合わないとする。
そこで「それ嫌いなんだよね」のひとことで終わらせる人の中身のなさを感じる。
もっと言うと、嫌いなんだよねにプラスして自分の意見だけ押し付ける人が気にくわない。
なんか自分が1番だと決めつけている感じ。
なんていうか…お互いがつまらないし、
シンプルに人としてつまんねえんだよな…。
目に見えている筈なのだが、実際にそういう人は居て、苦手だ。

お互いを分かり合う努力をしない。
それをしなくて何になる?
分かり合う努力をしないのに尚、自分の考えを押し付けてくるような人。
人との距離が遠退くだけだし、場合によっては争いになる。
それが戦争の起源なのではと感じるほど。
お互いの成長と和解の話だ。

しかも、そういう人こそ何故か態度がでかかったり、攻撃的だったりする。
恥ずかしいからやめとけと言いたいのだが、まあ人間だしいいんじゃないかなとも思う。
成長した時に途端に恥ずかしくなってその時に気づくかもしれないし。
むしろ気付きたくないから成長しない人もいると思う。無駄にズル賢い奴は特に。
そして狭い世界の中でぐるぐるぐるぐるいつまで経っても彷徨っている──。
その中で仲間を見つけて生き抜く。
そのなかで成功した気になる。
宗教みたいだなと俯瞰して見てしまう。
類は友を呼ぶから成立してしまうことがあるのは仕方がないこと。
いつになったら気づくのかなと待ち侘びる。

分からないことが1つでもいくつでも、あったとして、それは仕方のないことかもしれない。きみを否定しているわけじゃない。
それからの話をしようぜ。

ちなみにわたしはうーんと思っても、新しい解釈や、いいところをできるだけ見つけようと努力したり、なにかプラスとして得るものを(マイナス面で得るものを見つけても仕方がないので)探すし、それもまた楽しいと思っています。
それでも理解ができなかったら仕方がない話だけど、それはそれだねってお互い思いたい。冒頭で話したように、時間が解決することもあるからね。(価値観が変わる)
もっと頭を柔らかく。

先入観や固定概念というものの塊で阻止をしている感じは個人的には怖い。
自分から猶予をかけてるみたい。
それに縛られ、アイデンティティだと、正解だと思ってる感じ。
全く不自由に見えて気の毒だし、
精神的、生命的に、この人は怖くて危ない人だな、大丈夫かな…と感じてしまう。
見捨てはしないけれど、果てしなく不憫。

自分がしあわせならいいかもしれないけど、周りの人達、ましてや好きな人をしあわせに出来ないならそれはどうなんだ?と思う。

わたしも押し付けは極力したくないし、いけないことだし、されたくはないが、お互いに、2人のやりかたで理解をし合うことが一番大切だと思う。
そして、それが一緒の思いになれたら一番いいということだ。

分かり合うことと、譲歩することと、受け入れること、理解することは似ているようで違うけれど、全て必要で大切なことだと思います。

その努力を怠らないようにこれからもしたいと思う。辛いけれど、かなり長い目で見ても、(次の世代を超えて受け継ぐにしても)幸せに近づくことだと思うから、やれることだとも思う。わたしの愛の1つかもしれない。

potsura.

思うことをぽつら、ぽつら。 小説のような、日記のような ぼくの淡い日々と哲学と本音。

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