価値観というもの

わたしはなんだかここ最近、価値観って言葉が好きじゃないと思うようになった。
何がきっかけで、そう思うようになったか。
ここでそれを書く義理もないから書かないけれど、なんで苦手になったのか書いてみることにする。

「価値観」
そこで「人それぞれ」ということばが前についてくるとわたしは更につらくなってくる。
「人それぞれ」の価値観。

人それぞれなんか当たり前じゃないのか。
言われなくてもそんなのわかってることだし、当たり前、自然現象、十人十色。
同じことばが2つ重なっているみたいでわたしにとっては二重苦でしかない。

であるからして、価値観が違うのは当たり前なのだけれど、わたしはその先が見たい。

あと、価値観と言うことによって大体のことが責任逃れできてしまう。
それがなんとなく嫌なんだろう。

そこで留まる人よりもその先を行く人が好きだ。自分の中で完結するのではなくてその先を行く人。俯瞰して見れる人。

なにやら「価値観」というのは、人が言い訳をしているときに出てくる確率が高い気がしている。「価値観」と言われればそれで怯むと?言い返してこないと?諦めると…?
とわたしは思ってしまう。

兎に角、「価値観」を多用する人は、人のことを甘く見ていることが多い気がする。
だから苦手になってしまったんだ。

詰まるような、深入るはなしをした時に限って、話の根本に到達した時に限ってそれは放たれる。
「価値観が違うから仕方ない」
(ね、だからそっとしといて)
(そっとしとこう) 
(めんどくさいし)
って声が聞こえるんだよ。きみの心の声。

人のことを甘く見ている以上に、自分のことにも君は甘ったるいのだ。
外国のケーキみたいに甘くって、胃がもたれる。

総てが価値観と言って話すことをやめたら、どうなるか想像しようぜ。
きっと地獄だぜ。

戦争が絶えないのも、そういうことなんじゃないのかな。とさえ思う。

話すことはお互いを交換し合うことにあって、その中で新しい価値を見つけることにあるんだよ。
そのなかで日々その人との関係性や自分を更新ができて、その価値観は毎秒毎分変わって当然のことなのだ。これだけ思想や人、モノ、文化が溢れているのだから。

話すということは空気のように自然なことだけれど、常に価値観と価値観の殴り合いなんだよね。(殴り合いっていう表現は言い過ぎか)
「どのケーキにする?」「わたしはー」
「どんな本が好き?」「わたしはー」
こんな具合と一緒。
それをきみは、やめてしまうんだね。

その価値観の譲り合いはまるで席の譲り合いと一緒な気もする。
全てを相手に委ねて寄せてくことがいいとも思わない。純粋で真っ直ぐなきみの価値観を教えてよ。

「言葉のキャッチボール」って知ってるかい。会話は言葉のキャッチボールみたいだからそんなふうに名付けられてるみたい。
素敵な比喩だって思う。

キャッチボールはどんな玉でも受け止める必要があって、逆もそれは同じで。
変化球であっても受け止めなきゃいけなくて。たまに休憩も必要だけれど。(それが今なのかもしれない)
だから、相手を受け入れるっていうこと。受け入れたらまたキャッチ仕立てでじんわりした手を感じながら自分の玉を投げなきゃいけない。
キャッチしたままってことは、相手が自分の中に入り込んでいるということ。
自分の価値観はどこに行ったのか。
その価値観はなんのためにあったのか。
そうなってしまえば、きみからきみの価値観は消えてしまうことになる。

それは優しさや愛、素直さとは言わない。
別に価値観が嫌いなわけでもない。
むしろきみを知れて嬉しいことだ。

だから、キャッチをして(受け入れて)、噛み砕いて、自分の玉(気持ち、価値観)を投げなきゃいけないんだ。いつでも。

そのキャッチボールを受け入れてくれる人が本物だし、そうして2人の関係性が、2人だけの新しい価値観が、愛おしい子供のように生まれるんだと思う。

どうか、きみの価値観をぼくにくれよ。
そしたらぼくの価値観をきみにプレゼントができる。
それが優しさであり、愛だろ?
そうしたらきっと、ぼくだけの、きみだけの新しい歩みが生まれるから。

そういう希望的、メモ。
世界が本物の愛で溢れますように。

potsura.

思うことをぽつら、ぽつら。 小説のような、日記のような ぼくの淡い日々と哲学と本音。

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