フラストレーション
気が散って本も読めないし、やっと描く気になった絵も描けないし、創作の観点では毎日が鬱。
高校や専門の時の友達もみんな一人暮らしを始めたり、旅に出たりして、自分のしたいことが集中してできて、したい仕事をして、色々経験できて本当にいいな。
こっちは毎日泣ける。
昨日久しぶりに高校の頃のクラスメイトの友達に会ってきて、
「この前の展示すごかった、自分がしたいことをあれだけ表現してすごく刺激を受けた!ありがとう」
と言ってくれたりしたのね。
でも私にとっては心や体がとても元気なあなたがとても羨ましくて。
NPOの社員で出張でいろんなところに行けたり、職場の人も良い人で楽しい、一人暮らしも始めたと。
それでもすこし会社のやり方に合わないところもあるよと。
…何て素敵なんだろう。
まるで会社がライフスタイルの一部。
出張でいろんなところに行けたり。
わたしよりもなんとなく、自由だと思った。
絶対に友達と会うときや、展示をみに行ったときに惨めに感じてしまう。
性格的に、根本的に、一人でいないとダメな性格で、監視されているのと同等の今の生活がこうさせている。
人がいるとまるで集中できない。よく泣きそうになる。
もう何年も何年も、実は物心ついたときから。
でもこの性格なのになぜ家出をしなかったのかと思うだろうがいろいろあるんだよ。
そう、まだ一人暮らしもできていないんだよ。アートしてるくせにさ。
自立“心”だけ強まるばかり。
結局、そんなんだから中途半端な活動になってしまう。
ぶっちゃけ、お金的には別にやっていけると思う。
友達付き合いも得意じゃないので、いいと思う人とだけしか付き合わないし、サッパリした性格なので友達関係の悩み事はこれと言って何年もない。
一生、実家にいる気がしてほんとうに、嫌だ。
思考だけが、走る。
そういえば、この写真の本に書いてあることなんてすごく分かるし、そうしたいのは山々だし、読む必要なんて殆どなかった。(あ、すごくいい本です。)
だからほんとに環境を変えたい。
わたしはずっと、このまま埋もれてくのか。
明日死ぬかもしれないのに。
本当ならそうやってやりたい事をやり尽くして経験を重ねて削ぎ落とし、シンプルに賢く生き抜いていくべきなのに。
自分の生き方、自分の個性、自分の考えを素直に表現できなくてつらい。
当たり前のようにそれは作品にも言えます。
こんなにつらくもどかしいことはないです。
まず、表現者なんです。わたしは。
制作環境をやっぱり整えたい。
本当はこんなにエネルギッシュなのに勿体無い!と言ってくださることも沢山あり、
わたしだってやりたいことなど山ほどあるのに、全く人生に生かせず、うるせえよ!って時もある。
全体的に時間がないのに何もできず引きこもってばかり。忸怩たる想い。
将来いつかこんな自分みたいな人を後押しできるような何かをしたいけど、これじゃあ。
がんばりたいのにがんばれないし、これから先もいろいろ許されないんだろうか。
これは、“仕方がない”で済まされる問題なのか。
作品に関する葛藤
このフラストレーションを安易に作品としてアウトプットするほどヤワじゃない。
なぜならわたしのフラストレーションは重いからだ。
とても重要で子供のように大切な思い。
それを迂闊に形にできなかった。
提供するものが暗いものじゃ仕方ないという思いもあった。
けれど、それはデザインの話で、アートや音楽などのカルチャーでは違う話なんだ。
それを受け入れて“欲する人”、“受け入れてくれる人”、“消費者”がいるんだ。
いや、むしろ“居なくていい”はずなんだ。
そして、フラストレーションをアウトプットしてもいいということ。
こんな当たり前のことに今更気づいて、
わたしは何年もそこを履き間違えていて、時間と気力と金を棒に振った。
もっと自分の表現に対して素直になってもよかったんだ。
これに気がついた時、涙しか出なかった。
けれど周りはこの感覚をわからないだろう。
それでも尚、やりかたを押しつけるだろう。
結局自分は自分のやり方に自信を持ってそれを続けていかなければいけない。
それが大事で、絶対に結果につながる。自分を信じないと。
クリエイティブとはそういうこと。
作り手はそうであるべき。
そして、もう、ずっと。
ずーっと、今まで絵を描いても癒されずスッキリしなかったのだけど(!)
どこからともなく“やらされている感”がずっとあって。
(面白いことに、親しい友達はすぐにこれを見抜いてくれるんだ。)
それにようやく気づいてしまった。
だから絵が描けなくなった。
そんなこと誰にも言えず。
だからデザイン、デザイン、デザインの仕事に打ち込む。
アートの展示をするも過去作ばかり。
「前回と同じだね」笑って切り返す。
新作を無理して描く日々。
「素敵だね」笑って切り返す。
辛いとしか言いようがなかった。
そしてついに僕は僕と一人暮らし。
そうしてその一部始終を詩に、文にして書き連ねた。
フラストレーションも、愛する思いも、世界への思いも、宇宙への思いも、儚さも全て。
わたしが絵で表現してきた、しようとしてきたこと全てを。
わたしに合っていたのは“言葉”を文章で形にすることだった。
ほんとうにしっくりくる。これを書いている、今も。
なにもかも中途半端になってしまうわたしには、
結局文字しかなかった。
わたしは明確に表せる“文字”、“文章”。
これが好き。心から好きと言える。
それは白黒ハッキリさせたがるわたしの内面にとても良く似ていて、
一番ストレートに伝わる“言葉”だったんだ。
これは最近気がついたこと。
ほんとうに、ほんとうによかった。
エンドレス
現代人は自分の、或現代人は自分の、或いは第三者の足枷を付けることで自傷的で不自由にしていく。
或いは第三者の足枷を付けることで自傷的で不自由にしていく。
わたしは、結局人生は“自分の死ぬまでの時間”だと思っているし、それ以上でも以下でもない。
だからこそ、自分を貫き、有意義に生きることが前提だと思う。
あらゆるフラストレーションの原因は分かっていて、
それは自分の主張ができないから…なんだけれど。
つまり弱すぎるから、なんだけれど。
できるようになりたい。なりたいね。
反動なのか、友達や職場とか外では全然出来るのになあ。つらい。
そのうち結局、デザインもアート表現も何もかもやめて、
こうやってわたしのアイデンティティを発信するのもやめて、人自体と関わるのもやめそうで怖い。
このままだと本当に萎縮してしまう。
けれど、このままでは終われない。
表現者として以前に、人一人として。終わらせたくない。
自分の手で、幸せになりたい!
ただそれだけなんだ。
生きることに必死なんだ。
思考(プラン)だけが進み、肝心な行動が出来ないこの状況をどうやって打破するか、
プラスに変えるか、とにかく考えないと。考えないと。
ほら、またこうやって思考だけが進む。
一歩踏み出せよ。また、何度でも。
数回挫けただけだろ。
そしてまた冒頭に戻る。
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