空気。

吉岡徳仁が好きだ。

あの人のつくる、空間、作品が。

音楽のアーティストでいったら、それはもう究極的にシガー・ロスだと思うけれど、確かに空気が、感覚がどこか似ている。
同じ周波数で心地が良い感じがする。そう今、ふと感じた。
そのふたつがもしコラボでもしたら、たぶん空間が凄いことになる。
大袈裟に言うと、世界が崩れて自分の感覚が原子になってそうな…。


吉岡徳仁の方が、当たり前だが、デザインをしていて、きちんと思考できる感覚。

シガー・ロスは音楽をやっているアイスランドのポストロックなバンド。

音楽というのは絵などの芸術よりも自由な存在だと思っている。

ライブでは、空気がそういう風に彼らのデザインに染まっており(完璧に音源からしてそうなんだけど)思考が出来ずリラックスをして寝てしまう人が沢山いるらしい。とてもわかる。

CDでさえ分かるのに、ライブに行ったら本当に大変だなと思う。

確かに、天国へ行ったような感覚になる。
意識が無重力空間へ行ってしまうのだ。毎回本当にそう思う。

 〝芸術よりも自由な存在である〟

わたしは音楽も芸術だとは思っているが、細分化した場合、立体と音との認識である。それを前提とする。

普通は逆に〝いいえ、芸術は音楽よりも自由なものじゃないの?〟そう思うだろう。
社会的にはどっこいどっこいではあるが、もっと根本を追求していくと、音楽の方が数段自由であることがわかる。

どうしてか?

それはとても簡単な事であると思う。

芸術は社会とどうしても混じり合ってしまう存在なのだ。

これは逃れられない。

そもそも自由な表現など最初から用意されていないのである。
だからその決められた空間の中で、立体作品として組み立てていくのだ。
自分気持ちを、すべからく。
そして絵や立体などと、基本的にカタチがあるものなので、手に取り、触ることができる。
あとは大抵、没取をされてしまう。


音楽は最初から自由だ。
どうしてか?

音の世界であり、〝かたち〟でないものだからだ。

空間がもうそこにあって、決められた空間は無いのである。
空間なら無数に存在している。

演者がいる限り、没取されることもない。 

それを制限できる者ももちろん、誰もいない。そんなこと出来ないのだ。 

セクシュアルな表現をすれば講演は中止になり、その場では弾けないし、楽器を没収という事になれば弾くことができないし、もう演奏をするなということになるかもしれない。


けれど、実際の音楽は空気に存在しているのだ。

だから存在が近いのだ。

扱いやすいのだ。

だからこそ、商業的に使われてしまうのだろう。

手に取って没取することも、壊すこともできない唯一の芸術。
あとは音を出す本人が死ぬか、楽器が死ぬか、プレイヤーが壊れるかしかない。 

そして、絶対に手に触れることができない。

音楽をしている知り合いが、

〝死も包み込みそうなぐらい音に、そういった幅の説得力があるよな〟

と、言ったが、その「説得力」とは具体的にどういうことを指しているかわからない。

だが、それが確かにデザインになっていることがわかる。

体感してわかる。だからほんとに最高峰、そしてプロだとも思う。

ほんとにすごいことなんだよこれは。
そのクオリティでずっと存在していることがすごい。


それでもまぁ、最近のシガー・ロスは少し迷走しちゃったから残念だけど、その維持していた期間が長いから、そんなこと棚に上げちゃうくらいすごい事だと思った!


そんなすごいふたつの芸術は、どちらも気持ちや空気をデザインしている、空間をデザインしている。

そう直感的に肌で空気で感じる。

それがどれだけ凄いことか。

空気って目に見えないものなのに、直感的に確信的に感じる、解る。

見分けがつく。

まいにちの物事の良いか悪いかも、すべて。
第六感だとか、人間と宇宙のスピリチュアルなものの中のひとつなんだと思う。

よく、そんなの信じないというやつがいるけれど、そういう人は、気付いているが、わからないふりをしている。または本当にわからないか。
あとは閉ざしているんだろう、もう動物ではなく、機械的に、人間をやめた生き方なんだろう、そう思う。

そして、それが確信的にあると断言できるのは、この「みえないかたち」吉岡徳仁の本のタイトルと、特にその下に巻きついている、〝帯〟を見た瞬間だった。

これだけでまだ読んでもいない、パラパラ見てもいない中身が本当に凄いものだとわかった。

本当に、この自分が信じてきた感覚が正しかったと裏付けてくれた。ほんとにすごい。
ほんとに感動した。

これはいつかできるであろう後輩や、命を譲れるほど愛する友人とかにとっておく。

周りも感じ取れるんだよねー、空気を。普通の人たちでも空気を読みとることはできるのも面白い。
超コミュニケーション的なものなんだろうなっておもった。

「出会い」と思ってしまいがちだけど、(いま書きそうになった)「引き寄せた」だけ。
「必然」だっただけ。

なんて素晴らしい世界なんだろう。
ここまでちゃんと感動を持って理解できてる自分がすごく嬉しい。
誰かと共有できなくても何も、寂しくないんだな。

ほんとに‥リスペクトする。

第六感とか意識したことないし、スピリチュアルなかんじで自分自身へには無意識に避けてたかもそこ開けたら素晴らしいなとおもったよ。

意識レベルの話じゃないんだよね。意識は後からついてくる。
空気なんだよ。

今日、その知り合いが感じたものも、空気。

意識ではないでしょ。
その後で意識に変わるんだ。

だから全くスピリチュアルではないんだよ、本当は。
みんな社会に洗脳されて、超機械的になってしまっているだけ。

(ここでいうスピリチュアルっていうのは、うさんくさいものであって、もともとは自然の持つ神秘というものなんだけどね。)


そんでそれを解放して本当に受け入れてくると、ほんとこうなる。
空気がさらにわかるようになる。

potsura.

思うことをぽつら、ぽつら。 小説のような、日記のような ぼくの淡い日々と哲学と本音。

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