自由について想いを馳せる。


自由とは規律や秩序の中にあり、
秩序とは自由だ。

秩序がなければ自由などないし、
自由がなければ秩序もないのだ。

自由とは自由ではなく、
また秩序とは秩序ではない。
マナーなんかも同じだ。

「自由を求めるにあたって、なんでもしていいわけでもないじゃないか」
このテーマは中学時代くらいからわたしの中にずっといて。
もしそれを肯定するなら、自由になんでもしていいなら、戦争を起こすことになにも私たちは言えないはずで。
戦争と自由は一緒で。デモですら一緒で。
「それはほんとに自由なのか?」
「その自由は平和になるのか?」
考えて考えた。
わたしは中学時代後半から自由と自立を掲げる風変わりなヒッピーのような学校に通っていたせいもあり、自由の事をたくさん考えた。
今でも常に考えている。
その癖は治りそうにない。

だからこそ本当の「自由」を提唱したい。互いの言葉を、互いの素質を認め合う。
こうしたらきっとほんとうに自由になるんじゃないかと。
これが今のわたしの自由に対する答え。

そもそも、この世は陰と陽でできている。右左も同じ。対義語。
光と陰。相互作用。
それで成り立っている。
それらは普遍的なものであって、特になにも考えず受け入れて使う。
微動だにしない、そこにあるものだ。
日常的に潜在意識で認めているからこそ、きちんと暴動もなく成り立っているのではないだろうかー…。

成り立たないことは悪くない。
だけど、その不安定さよりも最終的に成り立つことに意味はあり、人間は成り立ちを求める。
人間だけじゃなく、他生物などもだ。
全ての物事に起承転結がある。
終わりはどうであれ。

だから度々にわたしは「いや、それは本当の自由ではない」「ほんとうにそれはだめなことか」「人を迷惑にしてまでその自由に付き合わされなきゃならない人の気持ちを考えたことはあるのか」「それは本当の自由なのか?それがあなたの求める平和なのか?」などと考えたりもする。
もちろん、そのまま投げかけることもある。

だんだん、手答えが薄くなり、「いや、それは」「それは…」「いや…」「…」と思うのだ。

そして沈黙をする。
話すことがなくなる。

ただ、その現象自体にいい悪いもなく、可も不可もない。空気そのものであるのだけど。

したがって、本当の自由とは無秩序で野蛮なものでもなく、秩序は厳しく不自由である必要は必ずしもないだろう。

そしてそれらはきっと、優しさの上に本来成り立っているのだと感じる。
その中で何ができるか、どれだけの自由を感じることができるか。

それが自由。

そこに喜びを感じるべきだ。
世界がとても広がる。果てがない。
ただそれは難しい。
とても難しいもので。

優しさのない秩序は、ただの拷問だ。
だから現状になっているんだと思う。
優しさを捨てたから、地獄になっているんだ。これを地獄の秩序と呼ぼう。

さあまたもっとたくさんのものをみて、もっとたくさんのなにかを知り、感じ、自由を追い求めたい。

potsura.

思うことをぽつら、ぽつら。 小説のような、日記のような ぼくの淡い日々と哲学と本音。

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